「優しさ」は結局受け手次第ではないかと思った話
お世話になった顧問の話
数年前会社に顧問として勤めていた方に大変お世話になった時期がある。
その方は週一回訪れてメンバー毎に個別ミーティングを開いていた。
主に担当している業務の進捗を報告するのだが、細かなツッコミを高速ジャブのように入れられる。
一度きりであればダメージは軽いが毎週となると中々ヘビーである。
通常業務に加え、ミーティング用の資料作成に追われ慌ただしい毎日。
「今週はスキのない会心の資料ができた!」と思ってミーティングにのぞむと高速ジャブでふらふらになったところに会心のストレートを叩き込んでくる。
次第に通常業務が忙しいを理由にミーティングを欠席、そのままフェードアウトするメンバーも出てきた。
私は減ったメンバーの分、ミーティング時間が伸びそのミーティングが本当に憂鬱だった。
なぜそのミーティングを欠席しなかったのか
非常に幼稚であるが、当時のことは強く覚えているので書いておく。
・仕事ができないと思われる順にメンバーがフェードアウトしていったから。
→その仲間に入りたくないと思っていた。
・いつか黙らせてやるという謎の反骨精神
→一年くらい挑戦し続けたが、結局叶うことはなかった笑
この話がなぜ「優しさ」につながるのか
現在、私のベースの多くは間違いなくここで形成されたと考えることができるからである。
当時は面倒くさくてボコボコにされる資料を作るのなんて時間のムダとさえ考えていた。
常業務が忙しいと言えば、疲れるミーティングをフェードアウトできるのだからしてしまおうと考えたこともあった。
しかし、数年たってあれは「優しさ」だったと気がついた。
ただの小生意気な若造に時間をとってしっかりと指導をしてくれたこと、フェードアウトした人を無理に追わず残ったメンバーにあてる時間を増やしてくれたこと。
結果として今の私がある。
「優しさ」は結局受け手次第
何かに悩んでいたり苦しんでいたりする時「大丈夫?」「何かあったら言ってね」とすぐに声をかけることができる人がいる。
この言葉に救われ力が湧き困難を乗り越えることのできる人にとっての「優しい人」はすぐに声をかけることができる人である。
困難を乗り切る力がまだない人にとって「大丈夫?」「何かあったら言ってね」という言葉は何の解決にもならない。
この人にとっての「優しい人」は悩んでいる原因を取り除ける人である。
過去の私がそうであったように後者の場合、時間がたって初めてその「優しさ」に気づけるのではないだろうか。
悩んでいる本人に「困難は取り除いた、さぁ安心して!」と伝えたところで、本人が一歩踏み出してみないと本当かどうかはわからない。
つまり「優しさ」は受け手によって変わり、出し手が「優しさ」と思っていても「優しさ」にならないこともある。